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大阪新歌舞伎座
大阪にある新歌舞伎座も昭和を代表する建物です。
新歌舞伎座とは 1958年、千土地興行株式会社が千日前にあった大阪歌舞伎座の後継劇場として建設し、経営した。
1963年千土地興行は株式会社ドリームランドと合併し、新社名は日本ドリーム観光株式会社となった。
1966年、日本ドリーム観光は株式会社新歌舞伎座を設立し、以後この会社に大阪新歌舞伎座の経営を行わせることとした。
1988年、日本ドリーム観光はダイエー・グループの一員となった。
1993年、日本ドリーム観光が株式会社ダイエーに吸収合併されたため、株式会社新歌舞伎座はダイエー直属の子会社となった。
2005年ダイエーは株式会社新歌舞伎座を株式会社リサ・パートナーズのSPCである有限会社新宿オーフォーに譲渡した。
したがって、現在、株式会社新歌舞伎座はリサ・パートナーズ・グループに属する。
この劇場が「大阪新歌舞伎座」という名称であるにも関わらず、滅多に歌舞伎を上演しない
(2008年現在、1995年2月の「二月大歌舞伎 市川猿之助特別公演」を最後に1カ月単位の歌舞伎公演はまったく行われていない)が、
その原因はこの劇場の創設当時の事情が関係している。
1954年松尾國三は大谷竹次郎に乞われて千土地興行の経営を引き受けたが、
その同じ年から大阪歌舞伎座(1932年、現在ビックカメラなんば店のある土地に新築開場)を本拠としていた関西歌舞伎は
いわゆる「役もめ」から内部崩壊を開始し、観客動員も急速に低下、もはや「3000人劇場」の維持は無理と判断した松尾は
「歌舞伎座の縮小・移転、歌舞伎座ビルの有効利用」の方向を決めた。
1958年4月の新国劇公演を最後に大阪歌舞伎座を閉鎖、歌舞伎座ビル内部を改造して12月に「千日デパート」として開業した。
一方、御堂筋西側の「なんば大映」跡地に建設されていた新劇場は「大阪新歌舞伎座」と命名されて10月31日に開場した
(当時の収容人員は1835名)。
こけら落とし興行には尾上菊五郎劇団を迎え、関西からは市川壽海・中村富十郎(4世)のみの参加にとどめ、
関西歌舞伎の本拠にはしない事を当初から明示していた。 松尾は「歌舞伎座」の名の手前開場の翌1959年のみは年6回の歌舞伎興行を行ったが、
1960年以降は歌舞伎・新国劇・新派をしだいに取り止め、より収益のあがる新しい興行形態の開拓に積極的に乗り出した。
千土地が経営していた大阪劇場(大劇)の興行をヒントにして、人気のある映画スターや歌手を中心に据えた
「座長芝居」「歌手芝居」を月替わりで公演する方式を編み出し、大成功を収めた。
東京・大阪・名古屋のほとんどの商業劇場がこれに追随したから、松尾は現代の商業劇場の興行形態の創始者の栄光を担っているといえよう。
杉良太郎が座長公演を、1974年から2005年にかけ50回に渡り興行したことは著名である。
2009年6月に最終興行となり、杉良太郎・山田純大親子での舞台公演「拝領妻始末」と、
最終3日間は五木ひろし・コロッケなどの歌謡ショーで締め括られる。
以上は千秋楽の2009年6月25日の大阪新歌舞伎座の様子です。
そして、ここからは2009年6月29日、つまり、本当の最終日の写真です。
昼過ぎの状況です。
お昼の部は満員御礼の札がかけてありました。
本当に長い間ご苦労様でした。
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