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                  | ジャン=アンリ・カジミール・ファーブル(Jean-Henri Casimir Fabre, 1823年12月23日 - 1915年10月11日)は、フランスの生物学者。 昆虫の行動研究の先駆者であり、研究成果をまとめた『昆虫記』で有名である。
 同時に作曲活動をした事でも知られ、数々の曲を遺している。
 南フランスのアヴェロン県にある寒村サン・レオンに生まれ、3歳のとき山村にある祖父母の元に預けられ、大自然に囲まれて育った。
 父の家業が失敗し、14歳で学校を中退するが、師範学校を出て中学の教師になり、物理学、化学の普及書を著した。
 コルシカ島、アヴィニオンを経てセリニアンで安住し様々な昆虫の観察を行い、それらをまとめて発表したのが『昆虫記』である。
 ファーブル自身の業績は、祖国フランスではあまり理解されなかった。
 しかしその後『昆虫記』は世界中で翻訳され注目を浴び、多くの人々を魅了して彼の長年の業績が高く評価されていったのは事実である。
 経歴 ファーブルの父方の祖父は羊飼いや小作人を抱えたそれなりの経営規模の自作農であったが、そこから自立して農場を離れた父のアントワーヌ・ファーブルは定職に就けず様々な手伝い仕事を転々とし、やはり大規模な自作農の出の妻のサン・レオンにある実家サルグ家や、妻の婦人用皮手袋作りの内職に経済的援助を仰ぐ貧しい生活だった。
 ジャン=アンリは4歳から7歳までの時、弟のフレデリックが生まれた事もあって、母が育児をし、また内職を続けるのを妨げない為に、20km程離れた父の郷里のマラヴァルの祖父の大家族で育てられた。
 自然豊かな環境で育ったことがその後の人生に影響を与えたと言われている。
 7歳になって学校に行く為にサン・レオンの父の家に戻り、フランス語の読み書きを身に付けた。
 しかし1833年になって10歳の時に、父が都会の生活に憧れていた為に一家はサン・レオンを離れ、アヴェロン県の県庁所在地ロデズに出てカフェを開業した。
 ファーブルはその後生地に戻ることは二度と無かった。
 両親が教育には理解があった事、王立中学の礼拝堂で司祭のミサを手助けし、聖歌隊の役を務める事を条件に学費が免除された事もあって中学校進学が叶い、ラテン語とギリシア語で優秀な成績を収めた。
 しかし、接客の下手な両親のカフェ経営は失敗し、1年足らずで店を畳んでロデズを離れる事となった。
 父はその後オーヴェルニュ、トゥールーズ、モンペリエと各地を転々としながらカフェを開いては失敗を重ねていった。
 ファーブルは父の開店先の一つであったトゥルーズのエスキーユ神学校で再び授業料免除の入学を認められて中学二年に相当する第五学級を終えたが、15歳で一家は離散状態となり、肉体労働で糊口を凌ぎながら独学を続ける事となった。
 1840年にファーブルはアヴィニョンに滞在していた時に、そこの師範学校で学生を募集している事を知り、入学試験に首位で合格する。
 1839年に師範学校に入学し、3年後首席で卒業、小学校上級免状を取得した。
 その後独学で数学を習得し、カルパントラのビクトル・ユーゴー学院で数学と物理学の教師になり、21歳で同じ学院の教師であるマリー・セザリーヌ・ヴィアーヌと結婚する。
 そして2人の子供に恵まれるも、すぐに死んでしまうという不幸に見舞われた。
 その後コルシカ島の大学に進み数学を勉強するも以後数学よりも昆虫学に傾倒していく。
 アヴィニオンに戻ったファーブルは1861年、博物館の館長として働き同時に研究資金を稼ぎ大学教授となる為の財産基準を満たす為に染料の材料であるアカネの研究に没頭した。
 そして天然アカネから効率よく染料のアリザリンを抽出し、精製する技術開発で大きな成果を挙げる。
 この成果でファーブルはレジオンドヌール勲章を得る事になる。
 しかしこの研究成果に基づく工業化は、ほぼ同時にドイツで人工合成に成功し、工業化された合成アリザリンとの競争に敗れ、事業からの撤退を余儀なくされた。
 1863年アヴィニオンのサンマルシャル礼拝堂で市民を対象に「植物はおしべとめしべで受粉をする」という原理を説明するも、参加者のほとんどが女性であった事から、受講生から大きな非難を浴びてしまう。
 その後、日ごろ独学で名を成したファーブルを妬む政界、教育界はこれを好機とみて、ファーブルを教壇から引きずり下ろす。
 この事件は彼に対するねたみだけでなく、教育をカトリック教会から切り離す上で大きな働きをした当時の文部大臣デュリュイへの、宗教界からの意趣返しの側面も大きかったとされる。ファーブルはデュリュイから彼の教育改革を象徴する教育者として大変ひいきにされていたのである。
 その後、家主にも追い立てられたファーブルは住み慣れたアヴィニオンを出てセリニアンに移り住む。
 ファーブルは大きな試練に立たされるが昆虫記の執筆に注力するのはこの後の事である。 セリニアンに来て最初の妻を病気で失い、23歳の村の娘と再婚する。
 そして3人の子に恵まれ合わせて8人の大所帯を持つ。
 セリニアンの自宅には1haの裏庭があり、ファーブルは世界中から様々な草木を取り寄せて庭に植え付けると共に様々な仕掛けを設置して、老衰で亡くなるまで36年間、昆虫の研究に没頭した。
 ファーブルはここでオオクジャクヤママユの研究からメスには一種の匂い(現在でいうフェロモン)があり、オスはその匂いに引かれて相手を探し出すという事を突き止めた。
 試しに部屋にメスのヤママユをおいて、一晩窓を開けていると翌日60匹ものオスのヤママユが部屋を乱舞したという。
 ファーブルは高齢になると年金による収入がなく生活は極貧であったと言われている。
 昆虫記ほか科学啓蒙書の売れ行きもさっぱりであった。
 85歳を超えたファーブルは健康を損ない、横になる事が多くなる。
 そしてヨーロッパ全土にファーブルを救えという運動がおき、当時のフランス大統領ポアンカレーはファーブルに年2000フランの年金と第5等のレジオンドヌール勲章を与える。
 しかし時すでに遅く、ファーブルは燃え尽きていた。
 1915年、彼は担架に乗せられて愛するアルマスの庭を一巡りする。
 これが彼にとっての最期の野外活動となってしまう。
 そして同年10月11日老衰と尿毒症で亡くなる。
 ファーブル92歳の事だった。
 葬儀のときファーブルの眠る墓にどこからともなく、虫が寄って来たという逸話が伝えられている。
 
 原書などは難しいので、肉まん父さんの二人の娘(くりぃむ&ホイップ)は次の漫画を母親(あんまん母さん)が近くの書店で購入し、それを喜んで何回も読んでいました。
 
  肉まん父さんがこの本を読んだ時は、56ページの「これこそほんとうにやりたかったことなんだ!」というシーンで、肉まん父さんの若かった昔を思い出しました。
 
 
 今の時代、アルバムやビデオなどで今の子供達の写真や映像を将来の孫世代に残す事は出来ても、子供の頃に読んだ本などを次世代(孫)に伝える事はなかなか出来ません。
 
 これからも、数ある本の中で肉まん父さんの娘達が喜んで、むさぼり読むように読んだ本(肉まん家での良書)を、何年か先に生まれて来るであろう将来の孫に「お前の母さんは子供の頃、こんな本を喜んで読んでいたんだよ。」と、このサイトに記録として残し、伝えていきたいと思っています。
 
 
 少しずつコンテンツ(中身)を増やしていきたいと思います。
 
 また、何かご質問やご要望が有れば、左のメールアドレスにご連絡下さい。
 
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